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04 | 2006/05 | 06

第73回東京優駿回顧 

降り続くと思われた雨は雲の上の太陽が上昇するにつれて弱まり、やがてぴったりと止んだ。灰色の空は陽光を浴びて徐々に明るさを増し、やがて青みがかっていく。いつしか厚い雲の帳の隙間から、暖かい日差しも射し込み始めた。生涯唯一、最高にして最大の舞台への出演権、その栄誉を掴み取った「8000分の18」を、天は晴れやかに迎えようとしていた。

東京優駿へと続く道は、どこまでも険しく狭い。2003年にこの世へ降り立った8823頭。生き長らえることすら叶わなかった者、走ることを許されなかった者、辿り着けなかった者…彼らの挫折を踏み越えた先にだけ許される禁断の地。

「ダービーオーナーになることは、一国の宰相になるより難しい」

こんなフレーズが創作され、それがさも実在する首相の口から吐かれたかのように脚色されるほど、ダービーは永遠であり、比類無き孤高の極致なのだ。

至るまでに幾多の艱難辛苦が彼らを待ち受けようと、全ての可能性を振り絞り、万策を捧げ、心血を注ぐ。こんなレースを私は他に知らない。

しかし、それがサラブレッドにとって幸せなことなのか。ダービー馬としてだけの馬生しか許されなかった者を無造作に吐き出してきてしまった事実が冷徹に投げかける。馬たちの生命を削り取って得た盛衰の栄華を、心から讃えられるのか、と。ダービーを機に「終わってしまった」彼らは、むしろ悲劇ではなかったのか、と。

かの日本最高峰の調教師と呼ばれる人物も、ダービー至上主義への疑念を隠そうとしない。だが一方で、その「限界へ挑まない」姿勢を露骨に非難する者もいる。

どちらが正しいだなんて、言えるはずもない。クライムカイザーが不幸だったかだなんて、何ぴとたりとも断言することは不可能なのだから。価値を決めているのは、ダービー馬最強論を卑しく喧伝する夢遊病患者と、産駒の成績だけでしか馬生の価値を認められないエセ歴史家だけじゃないか。

一生に一度、10万人の20万の眼(まなこ)を一身に集め、祝福の歓喜を浴びて嘶(いなな)ける者の充足感。一度でも、一瞬でも、それは「全て」になりうるはずだ。

ダービーの価値が永劫不変である限り──。


長く暗い「門」をくぐり抜けた18頭が、パドックへと現れた。限られた観戦チケットを手にした人々が人垣を作り、色とりどりのレイが踊っている。普段は服装に無頓着な関係者でさえも、こんな日ばかりは正装に身を委ね、畏まった雰囲気を醸し出している。淑女達の華やいだ香りが、傍らに彩りを添えた。

究極の仕上げを施された1頭1頭の毛並みが、木々の隙間を漏れ伝うプリズムに反射する。下から上まで、余すところなく、見逃すところなく全てを見極めようとまとわりつく視線が、眩しそうにそれを見つめていた。

大地をなぞる18頭の足取りは、一様に力強く柔らかい。ある者は首を上下に振って気勢を示し、ある者は引き手を促すように前へと四肢を伸ばす。イレ込み、取り乱す者は皆無に見えた。凝縮された力が、上昇した気温によって今にも白い湯気となって立ち上りそうだ。

舞台は、整った。

島谷ひとみの、たおやかで艶っぽい吐息が風に乗って火照る魂を鎮め、張り詰めた空気となって競馬場を包んでいく。

18頭全てに等しく物語が在り、生産牧場の従業員、担当するスタッフ、調教師、騎手、馬主、そして馬券に夢を託す者、競馬という細く強い糸で結ばれし全ての人間の、万感の想いが込められし2分30秒弱が、直ぐそこに迫っていた。

NHKマイルC、ヴィクトリアマイル、オークス、そしてダービー。お馴染みの旋律が4たび府中の杜へ響き亘ると、方々から耳をつんざく轟音が爆(は)ぜ、ボルテージは最高潮へ達した。

若さを持て余す3歳馬には似つかわしくないほど、18頭は動じない。スムーズに「希望のゲート」へと吸い込まれ、最後はエイシンテンリューがゆっくりと収まった。

世代の頂点たる者を選定するゲートが、ついに開いた。

エイシンテンリューとマルカシェンクがやや立ち遅れたが、さして影響はなさそうだ。注目された先行争いが前方では既に始まっている。1コーナーへアドマイヤメインとフサイチリシャールが並ぶようにして飛び込み、先ずはアドマイヤメインが先手を奪った。

レースの主導権を握るのは、青葉賞を圧勝してここへ臨んだ彼と柴田善臣のコンビ。悩める2歳チャンピオン、フサイチリシャールは3番手につけた。皐月賞馬メイショウサムソンと石橋守は内うち5番手を追走。ここから2冠を狙う。

前走で初めて一敗地にまみれたフサイチジャンクは中団後方の11番手。直後にマルカシェンクが最内を併走する。鞍上福永祐一が、初めて跨った時にダービーを意識したという最上の逸材。骨折明けを叩き、視界は良好だ。「私」の夢でもある。

その後ろ、15番手の位置に付けたのは新パートナーに四位洋文を配した皐月賞2着のドリームパートナー。あの激走がドリームならば、導いたパートナー高田潤をここでも見たかった。そしてダービーを知り尽くした男、武豊のアドマイヤムーンは後方2番手から虎視眈々。自信を持ってムーンを選んだ彼に、秘策はあるのか。

千メートルの通過タイムは1分2秒。予想通りのスローペースとなった。先頭から最後方までがぎゅっと詰まったまま、レースはいよいよ中盤へ向かう。

3コーナーから4コーナーへかかる中間地点、大欅の向こうに先頭集団が差し掛かる。

瞬間、石橋が動いた。以心伝心の相棒をするすると外へと押し上げ、4コーナーを外め絶好位の3番手で回る。「鞍上の意のままに動ける才」に恵まれたメイショウサムソンだからこその妙技。ベテラン騎手故の好判断。

ごった返すインコースに残り、行き場を失ったマルカシェンクとは対極的になった。キングヘイローでの暴走事件から8年。数々のGⅠを手中にしてきてなお、福永祐一は超一流には程遠い醜態を晒し、GⅠ1勝のベテランの引き立て役に回ってしまった。

直線、道中の貯金を生かし余力たっぷりに仕掛けて粘り込みを図るアドマイヤメインを標的に定め、メイショウサムソンが襲いかかる。

「アドマイヤメインを交わせば勝てると思った」

石橋の見立て通り、後続は重さを増した馬場が足枷となって、伸び脚が鈍い。ダービーの1つ前に行われた「むらさき賞」の再現VTRのようだ。前を行く2騎によるマッチレース。

200メートル先で待ち受ける栄光へと鞭をふるい、全身を推進力に換えて相棒を叱咤激励する柴田善臣。

長く関東トップの勝ち星を稼ぎながら、彼にはGⅠや重賞の勲章が不思議なほど少ない。もちろん、クラシック競走とも無縁な日々を送ってきた。心無い者は、いつからか彼を「平場騎手」となじり、嘲笑を浴びせ始めた。しかし、築き上げてきたモノの真価は今年、彼に久々のGⅠ勝利をもたらしている。重賞競走での好騎乗も目立つ。「円熟の時、クラシック競走初戴冠の時」。完成するのはこの物語か。

いや、違う。

外から皐月賞馬。ここまで最高のレース運びで来た。交わすべきは眼前の1頭のみ。根性比べなら決して負けない。

身体を寄せ、溜めに溜めたパワーを解放する。ステッキが魂を鼓舞し、生命力と闘争本能に火を点ける。そして、力でねじ伏せた。先頭が入れ替わる。もう、相手からは盛り返す「意志」が失われていた。最後は手綱を緩め、健闘のライバルと手を取り合うかのようにゴール板を駆け抜けた。

勝ちタイムは2分27秒9。2着馬を首の差で従えていた。3着は後方から差を詰めたドリームパートナー、4着は数回ブレーキを踏みながら内からしぶとく伸びたマルカシェンク。NHKマイルC馬、ロジックも5着で意地を見せた。

ガッツポーズを出す余裕など無かった。彼がしたのは、いつものレースと同じように、手綱を緩め馬の身体のために余力を残してゴールを迎えさせるということ。

「あんなに早く手綱を緩めるなんて、ダービーでは考えられない」

日本競馬史上最も偉大な人物の1人、岡部幸雄はそう言って嘆息した。

どこまでも冷静で、馬本位を貫き通す男、石橋守。彼らしいスタイルは「異次元の世界」でも貫き通された。

騎手生活22年目、ダービー5回目の挑戦で初勝利。ウイニングラン、はにかむように小さく手を挙げてガッツポーズ。スタンド前、今度は少しだけ大きくガッツポーズ。馬を労い、顔の泥を拭い、軽く天を仰ぐ。青空に何を見たか。それとも、涙がこぼれるのを押さえ込んだのか。2年連続の2冠馬誕生を前に興奮覚めやらぬ観衆へ笑顔を送り、ヘルメットをとって一礼。いつもの柔和な表情は一層くしゃくしゃになっていた。

今、何を想う――。

メイショウサムソンを管理する瀬戸口調教師の喜色満面顔が覗いた。オグリキャップ、ネオユニヴァース、ラインクラフト・・・幾多の名馬を手掛けてきた師も、来年2月に定年を迎える。餞(はなむけ)として、これ以上ない1勝。

しかし、旅立ちの花道は未完成だ。秋、菊の舞台でもうひと仕事。黄色の絨毯がアナタ達を待っている。



今年も夢物語をありがとう――。
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